第3話 ― 一件目の浄化:裏帳簿と“帳尻合わせ”の罠 ―
経理部、午後8時。
夜の静寂が社屋に満ちていた。
昼間の喧騒が嘘のように消え、コピー機も沈黙し、空調の微かな唸りだけが耳を撫でる。
高畑知花子は、モニターの明かりだけが差す薄暗い室内で、黙々とキーボードを叩いていた。
パチパチ……カタ、カタカタ……
一見、地味な数字の海。だが、彼女にとってはこの羅列こそが戦場だった。
「……なるほどね。こうやって“消す”のね……」
彼女が注目していたのは、ある社員の交通費精算データ。
毎月決まったパターンで支払われ、しかも金額は微妙に異なる。
精算申請者は庶務課の男性社員――だが、その名義で動いているのは実は……上司だ。
「名義を使って、定期的に“小金”を回収……でもって裏口座へ。しかも部の飲み会費として帳簿処理……」
高畑の視線は冷静そのものだった。
(こんな小手先の帳尻合わせ、素人の誤魔化しにしては筋が通りすぎてる)
そのとき。
彼女の背後の空気が、ぴたりと止まった。
振り向くと、社内の廊下に“誰か”が立っている。
白いスーツに、顔の見えない男。
目の部分だけがギラリと光っている。
「……お仕事、遅くまでご苦労様です」
(誰……?)
「私、部長の依頼で来た者でしてね……高畑さんには、少し“見なかったこと”にしていただきたい」
男がスッ……と懐から取り出したのは、薄い封筒。
高畑の指がピクリと震えた。
「……袖の下、ですか」
「まぁ、ささやかな感謝のしるしです」
彼女は立ち上がり、ゆっくりとモニターを閉じる。
(こんな時代に、まだこんな露骨なことを……)
「私ね、前の会社でもこれやられて……でも見過ごさなかったんですよ」
男の顔が、わずかに歪む。
「困りますね……そういう正義感」
その瞬間。
「高畑さん、下がってッ!!」
凍てつく声と共に、会議室の壁を突き破って松永京子が飛び込んできた。
いや――その姿は、すでに“青鬼・キョン”のものだった。
長い黒髪が背後に舞い、全身から冷気がほとばしる。
「そいつ、“人間じゃない”。気をつけて!!」
男の顔が、ねじれる。
そしてその皮膚が、ベリベリと裂け――
中から現れたのは、“帳簿”そのもののような魍魎だった。
束ねられた紙片が触手のように蠢き、印鑑の痕跡が口のように喋る。
『シャチョーの命令……ホウレンソウ……タテマエ……コレガ会社ノ掟……』
「その“掟”、氷漬けにする!」
キョンが手をかざすと、足元から冷気が駆け上がる。
瞬時に床を這い、魍魎の足元を凍結する。
「ガー子、援護お願い!」
「おっしゃー、待ってたで!!」
技術部の窓を突き破って、伏木賀津子=黄鬼・ガーコが登場。
体中から雷を放ち、魍魎の帳簿触手を焼き切る。
『イイカゲンナ事ヲ……報告書ニ書イテナイコトハ、存在シナイ……』
「存在してるわよ、あたしの目には!」
そこへ、上吉原美代子=赤鬼・ミヨが加勢。
巨大な火球を右手に宿しながら、戦線に躍り出る。
「焼いたるわ、そんなゴミルール!!」
三鬼が横一列に並び、同時に一斉攻撃。
「氷結・蒼環陣」
「雷襲・裂弾衝」
「爆炎・紅蓮掌」
――ドォォン!!!
凍てつき、弾け、燃え尽きた魍魎。
その残骸が、かすれた声を残しながら溶けていく。
『ワタシタチハ……命令ヲ守ッタダケ……評価ガ欲シカッタ……』
静かに響くその言葉を聞いて、キョンが囁く。
「その“欲望”こそが、あなたを喰ったのよ……」
◆
騒動の収束後。
経理部の会議室では、高畑が震える手で帳簿をまとめていた。
その横で、松永が黙って彼女を見つめている。
「すみません……私、もう少しで……怖くて、あれを受け取るところだった」
「でも、受け取らなかった。あなたのその選択が、この会社を守ったのよ」
松永の声は冷たくも、優しかった。
「……あなた、何者なんですか」
「……“部長”よ。あなたと同じ、ただの会社員。少しだけ――地獄寄りの、ね」
高畑は苦笑する。
「信じたくないけど……信じるしかないくらい、派手な一日でした」
「地獄の方が、案外やさしいかもよ?」
「そうかもね」
二人の笑いが、わずかに重なった。